非金融系FPそばこと不確実な日々

2019年2月にCFPを取得しました。FPとして知っておいた方が良さそうなことを色々と書いていきます。

21年目の9.11

9.11から21年経ちました。

私のこれまでの人生の中で、非常にショックだった出来事のひとつなのですが、もう21年も経ったんだなあと思いました。

考えてみると、今の大学生くらいだと、ちょうど生まれたか、まだ生まれていないといった時期の出来事なんですね。

今年に入ってからはウクライナにおける紛争があり、改めて戦争への憤りを覚えるところです。

忘れてはいけないし、忘れられない出来事です。それでも人間というのは時間が経つにつれて記憶が曖昧になっていくものです。

そんなことを考えていたら、私が2004年9月10日から13日にかけて書いていたブログ記事を見つけました。

あの日から3年、まだ記憶が鮮明な頃に書いた記事を転載します。結構個人的なことも多く書いていますが。

1日前

2004/9/10

忘れもしない2001年9月10日。10時くらいに起きて、出かける前に郵便を確認すると1通の封筒が。これを私はずっと心待ちにしていました。

同年4月。夏に卒業を迎える私は、卒業後のことを考えなくてはなりませんでした。そして迷うことなくアメリカに滞在することを決めました。アメリカで仕事をしてみたかったのです。でも学生ビザで滞在している私は基本的に仕事をすることができません。イギリスなどはアルバイト程度の労働を許可されていると聞きましたが、アメリカはその辺がクリントン元大統領あたりから厳しくなったとかいう話を聞いたことがあります。ただ、学校を卒業した場合、学生ビザのまま1年間労働することができる方法があります。それに申請したのです。

その許可がおりて、証明となるカードが郵便で送られてきたのでした。これで2002年8月まで労働することができる、つまりアメリカにもう1年滞在できるチャンスができたのです。4ヶ月待った甲斐もあったもんだと嬉しくてたまらなかったのです。実は次の日、クラスメートやお世話になった先生と食事をしにいく約束をしていたもので、そのとき報告しようと思ったのです。

そのときは、そんなウキウキ感とのんきな気分でいっぱいでした。

2001/09/11

2004/9/11

2001年9月11日、私は朝の6時半位まで起きていました。寝て起きたのは10時半くらいでしょうか。その日はクラスメートや先生と一緒にランチを食べる約束をしていたので、起きてシャワーを浴びて、いつもならテレビを見るところなんですが、時間がなかったのでテレビもつけずに家を出ました。

待ち合わせは学校の先生のオフィス。そこには既に数人集まっていました。何か話しているのですが、途中から聞いているためどうも要領を得ない。何の話をしているのか聞いてみると、「どうやら飛行機2台が空中で衝突して墜落したらしいよ」なんて話。その時は「大変なことが起きたねえ」なんて言いながら、ランチに行きました。

ランチは近所のよく行く食べ放題のチャイニーズレストラン。とりとめもない話をして、多分「昨日やっと仕事できるようになったんだ」なんて話をしたんだと思います。ランチは2時くらいに終了。そのあと私はコインランドリーに洗濯に行ったり、買い物をしたりで夕方5時半くらいに帰宅したかと思います。

「そういえば飛行機が衝突したなんて話をしていたなあ」なんて思いながら、テレビをつけました。ニュースをやっていました。確かに飛行機が爆発している映像が流れていました。それはあたかも映画でも見ているような気分でした。しばらくは状況を把握できず呆然としていました。

そうです、あの911のテロだったのです。ワシントン州はニューヨークとは3時間時差があって、事件があったのが朝の9時半とかだったかと思います。つまり事件が起きたころ呑気に私はベットに入ってたんです。事件が起きてほぼ12時間経って初めて状況を理解したのです。

コンピューターを立ち上げてメールを受信すると家族や知り合いから心配のメールが届いていました。日本のほうがよっぽど早くに情報が届いていたんですね。つまらないことを覚えているもので、その日は火曜日で大好きだった「ジャングルテレビ」という番組を実家で録画してもらっていたんです。事件からずいぶん後になってそのビデオを見たんですが、30分くらい経ったころ臨時ニュースで事件後何度も見たあの事件の映像が流れました。なぜかそんなことをよく覚えています。

私はケーブルテレビが30チャンネルくらい見れるように契約していたのですが、全チャンネルがほぼ1週間、テロに関する番組だけをやっていました。この投稿1回でアメリカがどんな状況だったのか書くのは難しいので後々書いていこうと思いますが、とにかくアメリカ国内に恐怖と不安が走った1日でした。私自身、遠くで起きたこととはいえ、同じ国内のこと、周囲が明らかに厳戒態勢に入っていく中で、恐怖ではないんですね、どうにもいえない不安があったのは確かです。恐怖ではなかったのは、結局どこか遠くで起きていることだと思ったのかもしれませんし、現実味がなかったのかもしれません。とにかく、それは生まれて初めて体験する身近に起きた戦争といっていい出来事でした。

前に日に労働の許可証が届いて幸せ気分でいっぱいだった、そんな気分はすっかり消え去っていたのです。

9/11 夜

2004/9/12

私の記憶が確かなら、通常の番組は全てなくなり、ニュース・討論番組など9・11に関する番組がひたすら続きました。

私の中で印象的だったのは、おそらく事件当夜だったと思います。アメリカは「人種のるつぼ」といわれるくらい様々な人種がいるんですが、数時間に渡る討論番組があったんです。その中には当然イスラム系の人も出ていたんですが、彼らは番組の中で完全に悪役になってしまっていました。テレビを通じてでも彼らが極めて真面目で善良な人なのは分かりましたし、彼らはイスラム系ですがアメリカ人なんです。でもやりきれない感情を彼らに向けるしかないんでしょうか、かなり無茶な発言が連発していた記憶があります。先日の中国で受けたサッカー日本代表のブーイングと同じです。そんなこと言われてもどうしようもない状態なんです。

これは後の話になりますが、新聞を読んでいてもイスラム系のアメリカ人がひどい目にあうという事件が起こってしまいました。その内容はあえて書きませんが、「それでは、あんた達アメリカ人がやっていることも暴力に訴えたテロ行為と何ら変わらないんじゃないのか?」と思うようなものでした。

テレビで何度も流される事件の映像は、確実に悲しみと怒りを増幅させるものでした。でもこの事件当日にはその後に起こる様々な出来事を予想することなんて誰にも出来なかったと思います。

事件後、ワシントン州にて

2004/9/13

もう1つだけ9・11のことを書かせてください。

私の住んでいたワシントン州は、アメリカ国内ではニューヨークから最も遠いところの1つと言っていいでしょう。ですから危険と言う意味では直接的な影響は受けていないように思えます。実際、事件が起きたという現実感がなかったのです。ニューヨークのことはテレビ等で報道されていたと思いますが、我がワシントン州はどうだったのか書こうと思います。

私の住んでいた町はワシントン州の片田舎、アメリカで2番目に大きい島の中にありました。実際に住んでいると島だとは気づかないのですが本土(と言っていいのか)に行くには橋を渡るかフェリーを使う必要があります。事件の次の日、車で橋を渡ったんですが、それが軍だったのか警察だったのか定かではないですが、橋の上や周辺を見張っていました。橋が落とされたら・・・という意味での警戒だったのでしょうか?また町の中には軍の基地がありますが、軍の人ですら基地内に入るためにチェックが厳しくなっていたそうです。車で通うとなると大渋滞になってしまうという事だったのでしょうか、近くに軍専用の臨時駐車場を作りそこに車を止めて、徒歩なのか送迎バスがあったのかは知りませんが、通っているようでした。とにかく普段より町の中で軍の存在をより強く感じました。

シアトル近郊にボーイング社の巨大な工場があります。近くを通るとジャンボジェット機を真横に見ることができ、その迫力に驚かされたことがあります。そのボーイング社の工場では、私の記憶が確かなら事件後3000人のリストラ、その後も続けてかなり大きな規模のリストラを敢行していました。当然ですが深刻な失業問題へとつながっていきました。あの事件後、航空機関連の企業は大打撃を受けました。

また事件後2週間くらい経った頃、シアトルの空港に行きました。空港も厳戒体勢が引かれていたため、空港の駐車場に入るのが一苦労なんです。私は空港近くの駐車場に止めて、その駐車場が出しているシャトルバスで空港に向いました。そのバスには私しか乗っていなくて運転手さんと空港までの間、喋っていました。運転手さん曰く、事件後は空港に近づくのに非常に時間がかかるし、人もあまり乗らないしで大変なんだ、という事でした。空港の中でも普段に比べるとかなり厳しいチェックが行われていました。

シアトルのシンボルの1つとしてスペースニードルという塔があります。東京タワーみたいなものです。これも当然ですが入場禁止になっていました。

時間が経つと不思議とそのころの緊張感が薄れてしまうのですが、事件の起きたニューヨークから遥か彼方のワシントン州でも高いレベルの警戒態勢が引かれていたのです。ニューヨーク近郊となると大変なことだったと思います。

このとき私が非常に驚いたこととして、多くの人が危険を顧みずボランティアとしてニューヨークに向かっていったことです。医師、消防士はもちろん、何かできることがあるんじゃないかと車を走らせていくんです。また事件後、消防士を志願する人が増えたとか。何か自分にできるんじゃないか?と行動に移すアメリカ人のエネルギーにアメリカという国の強さを感じました。